アワアワアワアワ

 人生でもっとも面白くて無駄だった時期、まぁそれは大学4年間の引きこもり生活だったんだけども、今思い出しても概ね悲しいエピソードしかない。

 今となっては、それらすべて他人事みたいに感じてるのだが、当時は自分のことなので割と深刻だった。今日書くのは、ノイローゼになる前、まだ幸せだった大学1年生の夏の話である。 

 高校時代、様々なものから全力で逃げ続けた私は、幸いにも地方都市の国立大学に入学することができた。そして大学ではあたりまえに孤独な生活を送っていた。

 一般的にぼっちというと人権がない存在ってことになっているのだが、まだ世間をよく知らなかった事もあって、好きな授業に出て、好きなだけ本を読んで、生活は非常に満ち足りていた。金はなかったが、金があったことがなかったので特段苦にも思わなかった。

 そんな私だが、月に2度だけ贅沢をすることにしていた。インターネットカフェである。大学に入って初めてインターネットカフェに遭遇した私は、2,000円程度で死ぬほど漫画が読みまくれることに世界観が揺らぐほどの衝撃を受けていた。

 インターネットカフェと出会う前、漫画はとても高価で、実家の近所に住む池田、池田の兄、ゆかりちゃん、兄の友達、などなどすべての人脈を駆使してようやく最低限読むことができるものだった。好きな漫画もほとんど選べず、まさに「存在するからありがたく読む」という希少価値の高いものだった。それにもかかわらず、ありとあらゆる漫画が死ぬほど読めて、しかも飲み物が飲み放題ということで、常に活字と金に飢えていた私にとってイノベーションの具現化みたいな場所、それがインターネットカフェだった。

 ネカフェまでは自転車で片道30分ほどかかった。夜間料金になる8時を過ぎて、ようやく狭い部屋を飛び出し、街頭もない農道を一人でブラブラ走った。満天の星空の下で、あまりにも幸せで自由で頭がふわふわした。

 それが今では漫画を一冊も読まないばかりか、せっかく得た収入源を投げ捨てて一日「生きている意味とはなんだろう??」みたいな生活である。ほんとにどうしちゃったのだろう。人間ってどうして道を誤ってしまうのだろう。

人生は決断の連続であって

調子のいいときはたまに頭の中に光が走って、それでパパーンてな感じでラクガキする。それをネットにアップする。褒めてもらえる。スッキリする。という感じで気楽に小さなサイクルを回してたんだけども、どうにもここのところなんにも閃かなくって、自然となにか、発散できないものが澱のように体に溜まっていってる。

困ったもんである。いや、ほんとに困るべきは人生が停滞していて、やるべきことをやってない現状がなんだけども、まぁそれは一旦置いといて困ってる。

この文章も無理やりひねり出している。ひねり出す必要は多分ないんだろうけど、なにも発話しないと自分がどんな人間だったのかちょっとわかんなくなっちゃいそうなのでやってる。

今日は夫がいないので、一人でコンビニに出かけるなどした。

近所にはファミリーマートがあって、まだ働いている時期はそれに依存していた。スーパーは一番近くでも徒歩で20分はかかる。夜の8時とかに帰宅して、そこで酒を買って、夫とお弁当を分けあってた。最近は毎日作ってたんだけど、今日は夫が出張なのでコンビニで済ませた。夜の街を気楽な格好で歩いてると、大学生の頃をどうしても思い出す。引きこもってたときのことである。

もう二億八千六百回は言ってるんだけど、大学生の頃、私は引きこもっていた。理由は自分でもよく分かんないんだけど、転入初日に失敗してなんとなく改善できないまま4年過ごしちゃったみたいな感じである。後に私は心からそれを反省し、「二度と引きこもりになんぞなるまい」と心に決めたはずなんだが、33歳、二度目の引きこもりだ。毎日出かけるところはあるにはあるし、話す人もいちおういるにはいるが、心情的にはこれ、完全に大学生の頃といっしょというかなんというか。ヤバイ。ヤバイのである。

とりあえず飲みに行かねばならない。あわよくば一人で福岡行きたい。しかしそれをするには稼ぎがないといけない。というわけで「あーやっぱ働いたほうがいいのかな?でも、でも、でも、でも」みたいな感じになってる。

誰か助けてって思うんだけど、こういうとき、実際は自分しか頼りにしちゃいけないって知ってるので、やっぱ自分でなんとか切り開いて行こうと思う。強い気持ちで生きるぞわたしは。

インターネットで無駄なことを喋って後悔したときに思ったこと

 ネットの海で遊んでいると、あちらこちらに巨大なトラブルがあって、できるだけいつも見ないようにはしているけど、やっぱり根がゲスいから、どうしても目に入ってきてしまい、そのたびに嫌な気持ちになる。

 嫌な気持ちになったついでに、「いつから日本はこんな国になってしまったんだ」みたいなことを衝動的に公表して、すぐに恥ずかしくなって消したりしてしまう。

 私がそうであるように、多くの人にも強烈な「喋りたい」という欲求がある。そして、ネットの向こうから現れてきた何らかの出来事に「アレヤコレヤ」とガヤガヤみんなして喋っている。

 イライラさせるニュースは私の合理的思考を隠してしまい、それで「あの事件で悪いのは一般的にAだけど、私はBだと考える」なんて言ってしまう。それがまた誰かの怒りに火をつけて「それってBに対して失礼でしょう」だとか「あの事件に関して話せる立場ですか?」みたいなやり取りになってしまう。そんなシーンをよく見る。

 それで、そんなことを目にするにつけ「何かを公表するってことは、何らかのリアクションとセットなんだ」という当たり前の事実に思いを馳せる。無力な多くの人たちは多くの場合発言しても反応をもらえない。だからついつい忘れがちなんだけど、誰からも読まれない寂しいつぶやきひとつさえ、本当は誰かの心に石を投げて、小さなさざなみを作っている。

田舎で夫と暮らす

田舎で夫と暮らしてるのである。二人で。積極的にここを選んだわけじゃなく、今となっては情熱的に愛し合ってるわけでもない。

昨日「特に田舎で、夫と暮らすメリットなんかないんだから、都会に出りゃいいじゃん」と言われて虚をつかれた気がした。確かに、適当に仕事を見つけて、離婚しちゃって、どこか知らない街で一人暮らししちゃっても別に死ぬわけじゃない。でもそうしたいって、今となっては思わない。

人生を受け入れるってことなのかも分かんないけど、いつしか都会に対する強烈な憧れがなくなった。自分にはもっと出会うべき人がたくさんいるという思いは子供のころからずっと持ってて、それは都会に行けばあるはずなんだって信じてたけど、場所だけの問題じゃないって信じるようになったからじゃないかなって思う。

インターネットは便利なので、地方にいても諦めずにボールを投げ続けていればそれを拾ってくれる人に出会える。(まぁご飯は一緒に食べられないけど)。そして自分が変わったら周囲の人を変えていくことができる。例え頑固者の夫であっても。

人は選択権を持ってるんだけど、選んだことすべてが実現するわけじゃない。でも自分自身のあり方、頭の中をどうするかは選択することができる。それは環境も変えることができる(違う環境に行くことに比べたら骨が折れるけども)

多分わたし都会で毎週美術館生きたいんじゃないんだと思う。本当に出会うべき人たちに、切実に出会いたいんだけど、別にできたばかりの素敵な店でその人達と美味しいランチしたいわけじゃない。多分夫はすでに出会った本当に出会うべき人の一人なんだと思う。だからここを離れるのは違うって感じるなー今は。という感じです。

でもこれって停滞なんだろうか?ワカンネ

最近の生活について

退屈な日々を送っている。

最近あった面白かったことといえば、面接を受けたことくらい。とはいえ、就職活動らしい就職活動をしたことがなかったので結構わたしにとってはスリリングだった。

面接では、インターネットが大好きで仕方なくて、インターネットは人の人生を変えてしまうって話をした。インターネットの話をしていると、例え就職のための面接であろうが、泣きそうになってしまう。好きだ。インターネット。私の人生。

仕事を辞めてから、今まで知らなかったような人たちと「現実に」知り合う機会が増えた。何度も転職してる同じ年頃の女性、ほとんど組織で働いたことのない50代、地元から出たことのないクラブ好き、大学で挫折した若者、全員知らなかった人たち。

そういう人らに囲まれて、なんとなくその人達と深く話すこともないまま、日々やることを最低限こなして生きている。そういえば、せっかく近くにいるのにほとんど話したことがない。もったいない。

普通、人生は台風みたいにギャンギャン騒がしい。少なくとも仕事をしているときは毎日そうだった。仕事が苦手だったし人も嫌いだった。仕事は能力を超えて、人は予想外に激怒して、やる気はまったくなくて、真面目にやっても不真面目にやっても失敗した。

そしていま、台風の目みたいに無風状態で、特に面白いこともなく、悲しいこともなく穏やかな日々を過ごしている。これでいいのかなと不安になる。世界が急激に小さくなっていくのを感じる。取り残されているという不安じゃなくて、「知るべきもの、出会うべき人たちをみすみす見逃している」という焦りが少しある。

なんとかしなきゃヤバくって、やり方がわかんないのでとりあえず家を出てコーヒーでも飲むしかない。